今日、突然の安倍首相の辞任表明があり、先日の
シドニーでの発言以来、近々との予感はあったものの
びっくり!!でした。
大臣の不祥事に始まり、年金問題、参院選大敗の
責任など迅速な対応に欠けたことが事態をより
深刻にしたのかなと思えます。
政局、早くいい方向に向いてほしいものですね。
連日のニュース、うんざりです。
須磨寺境内の紅葉。おや、もう紅い?いや、いつも紅い?
下側の紅葉はまだ青々とした緑でしたが。
どちらにしろ、紅いと秋っぽくていいですよね。
さて、前々から、須磨の秋にちなんで書きたいなと思って
いたのですが、須磨には、都を追われて滞在した在原行平をはじめ、
昔から、文人、歌人が訪れ、文学や歌によく歌われています。
在原行平は平安時代、文徳天皇時に須磨に流され、わび住まいを
しましたが、たびたび裏山を訪れて月見をし、京の都を偲んだと
いわれていて、月見山は、現在でも月見山町という地名として残っています。
行平ゆかりの「月見の松」は、須磨の名所として、江戸時代の
「摂津名所図会」などに記載されており、現離宮公園の前身の武庫離宮に
あったとされています。
行平は、寂しさを紛らわすために、浜辺に流れ着いた木片で
一弦の琴を作り奏でた。これが後に須磨琴(一弦琴)となります。
また、行平が寵愛した汐汲みの姉妹、松風・村雨の伝説も世阿弥による
能「松風」で有名です。
そんな伝説から、源氏物語の須磨明石の段は
在原行平がモデルといわれ、須磨の月見は有名になりました。
その伝説の寺 現光寺は源氏寺とも呼ばれ、源氏がすまいにしたと
言われています。
源氏物語より~
「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の『関吹き越ゆる』といひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかるところの秋なりけり。」(寂しい須磨の地では、いよいよ心を引き裂く秋風が吹き、海は少し遠いのだが、夜になると、静かすぎて、波の音が、すぐそこに聞こえる。並ぶものなく心を揺さぶるのは、寂しい須磨の秋である。)
同じ現光寺に芭蕉の句碑があります。
見難いですが、
見渡せば ながむれば 見れば 須磨の秋 芭蕉
須磨の月を一目見ようとやってきた芭蕉。
元禄元年旧暦4月のことで、
中秋の名月でなかったことを残念がって以下の句も詠んでいます。
月はあれど 留守のよう也 須磨の夏 芭蕉
月みても 物たらはずや 須磨の夏 芭蕉
次のは 須磨寺にある芭蕉の句碑です。
須磨寺や ふかぬ 笛聞く 木下闇 はせを
延宝6年(1678年)松尾芭蕉35才の作です。
この句碑は、英文学者で俳人でもある橋 間石(門の中は月)の筆によるものです。
芭蕉は号をときに濁音をぬいて
はせをと書いた。
笛は敦盛の笛のことでしょうか。
秋っぽい句ですよね。
須磨寺には、他に、蕪村が詠んだ秋の句がありました。
笛の音に波もよりくる須磨の秋 蕪村
一ノ谷の合戦で討たれた平敦盛の「青葉の笛」にちなんで詠んだ句です。
蕪村の自筆を模刻した句碑が、平成18年10月7日に源平の庭前に建立されました。
次は尾崎放哉の自由あふれた句。
こんなよい月をひとりで見て寝る 放哉
自由律の俳人尾崎放哉は、大正13年6月より9か月間須磨寺大師堂の堂守として、無一物の生活こそ尊い真実と信じ、大正15年4月7日小豆島で死ぬまで清貧と孤高の生活をおくりました。碑は昭和34年4月7日命日に建てられ、字は師の荻原井泉水になるものです。
最後に、山本周五郎の「須磨寺附近」の碑を。
山本周五郎は、大正12年9月の関東大震災で東京を離れ、須磨寺近くの友人を頼って半年を過ごしたその時の体験をもとに、「須磨寺附近」を文芸春秋(大正15年4月号)に発表しました。その一節が碑に書かれています。